蔵人のみなさんこんにちは!
蔵人ライターのモリカワです!
先日、海童を飲んでいると、ふと「なんで鹿児島は芋焼酎が多いの?いつ頃から飲まれているんだろう?」という疑問が湧いてきました。
そこで、今回のテーマは「芋焼酎の歴史」!
なぜ鹿児島で芋焼酎が根付いてきたのか、濵田酒造さんのご協力も得て、
調べてみるととても興味深い事実がわかりました。
まずは芋焼酎のルーツから!
みなさんは、焼酎っていつ頃から日本にあるかご存知ですか?
実は、約500年前には日本に存在していたことがわかっているのです!
それを裏付ける証拠が、鹿児島県伊佐市にある「郡山八幡神社」で発見された木片に記されていた記述です。昭和29(1954)年に、本殿解体修理をしていたところ、「頭貫(かしらぬき)」という柱頭部を横につなぐ水平材に打ち付けられていた木片が見つかったそうです。
<郡山八幡神社 柱貫の落書き>
そこには、「其時座主八大キナこすてをち やりて一度も焼酎ヲ被下候 何ともめいわくな事哉」とあり、現代語に訳すと「工事の時、施主が大変ケチだったので、一度も焼酎を振る舞ってくれなかった、とてもがっかりした」というような内容が書いてあったのです。
調査の結果、この記述は1559年のものであり、現存では日本最古の「焼酎」の記載であることがわかりました。記述からは、工事の職人さんが所望するほど、焼酎が一般に親しまれていたものだったと推測できます。
織田信長も飲んでいたんでしょうか。焼酎ロマンを感じずにはいられません。
そもそもどのように鹿児島に伝わったのかは諸説ありますが、沖縄から鹿児島に伝わってきたとされる説が有力だそうです。
鹿児島は、火山噴出物からできたシラス台地が面積の大半を占めていて、その上、台風が多く稲作には不向きな地形だったので、当時は米がとても貴重な農作物だったのです。
なので、米焼酎を飲むことができたのは位が高い方々で、一般庶民は主にアワやキビなどの雑穀から作った焼酎を飲んでいたそうですよ。
<焼酎伝来ルート図>
しかし、今から約300年前の1705年にサツマイモが鹿児島に伝来したことで焼酎文化が一一転します。サツマイモは水捌けがよいシラス台地での栽培に適しており、台風にも強い作物なので鹿児島の土地では重宝され、広く庶民の間に普及しました。その結果、貴重な米よりも芋で焼酎が作られるようになり、鹿児島に芋焼酎の文化が根付いていったというわけです。
焼酎の歴史を紐解いたところで、ここからは、「濵田酒造」の創業ストーリーも簡単にご紹介!
濵田酒造がある鹿児島県いちき串木野市は、昔から海山川の豊かな自然に囲まれ、酒造りに適した水も豊富な土地でした。
また平安時代から交通の要衝であり、江戸時代には参勤交代の第一宿場町「市来(いちき)宿」として栄えました。市来宿の少し離れた場所には串木野金山があり、当時は7,000を超える人が採掘に従事していたそうです。人が集まり商業も盛んだったこの地で、地場産の菜種油を精油する種子油屋として財をなしていたのが、濵田酒造の前身である濵田商店でした。
創業者・濵田伝兵衛がその蓄財をもとに酒造りに乗り出したのが明治元(1868)年のことで、この地域で造られてきた「市来焼酎」の仲間入りを果たします。そして「いちき」ならではの焼酎文化を継承していったのです。
現在のいちき串木野市は、およそ3万人が暮らす小さな町ですが、6社8蔵の焼酎蔵がある、鹿児島でも焼酎造りが盛んな地域として知られています。
昔から交易により多彩な文化を取り入れ商業を発展させてきた、先達に敬意を払わずにはいられませんね。
いかがでしょうか。今回は芋焼酎の伝来秘話と濵田酒造の成り立ちまで、簡単ではありますが、歴史を紐解いていきました。
こうした歴史に思いを馳せながら海童を飲むと、また違った味わいが楽しめるかもしれませんね。次回は、その「海童」の開発に迫ります!「海童 祝の赤」誕生秘話などもインタビューしてきましたので、ぜひお楽しみに!