みなさんこんにちは!蔵人ライターのモリカワです!
7月に入り、夏の日差しが厳しくなってきていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
さて前回は芋焼酎の伝来から濵田酒造設立に至る歴史を書きましたが、今回はついに「海童」誕生の秘話に迫ります。教えてくれたのは濵田酒造の原健二郎さんです。
「海童」の名前の由来は?
「祝の赤」はなぜ赤なの?
などなど、さまざまな疑問にお答えいただきました。
海童ファン必見のおもしろいお話をたくさん聞けましたよ!
悔しさを乗り越えて獲得した総裁賞代表
「海童」が生まれたのは2001年4月です。2000年に開業した「傳藏院蔵」で初めて造られた本格芋焼酎として産声を上げました。今や、濵田酒造を代表する銘柄として愛されている「海童」ですが、開発当時は大変な苦労があったのだそうです。
――まず「海童」を開発するに至った経緯を教えていただけますか?
原さん「当社は、2000年に創業の地である旧市来町から、旧串木野市へと主力工場を移転したんですが、実は当時、移転先の旧串木野市には焼酎蔵がなく、地元の方々からは『この土地ならではの焼酎が欲しい』という要望が多かったのです。ならば私たちも『地元のみなさんに愛される焼酎を造るぞ!』という想いから、この地で新しい焼酎作りが始まったというわけです」
――そこから本格的に「海童」の開発が始まるわけですね。
原さん「酒質を決めるために、何度も会議や試飲を繰り返しました。
社長をはじめ、営業部や製造部など社員全員で開発を行うほど、『海童』は特別な焼酎だったのです。
そうして試作までこぎつけ、有識者の方々に試飲していただいたのですが、これが全くと言っていいほど良い評価ではありませんでした。『香りが良くない』『雑味がある』といった意見ばかりで、とても悔しい思いをしました。ただ、そこでくじけるわけにはいきません。
悔しさをバネにもう一度『海童』と向き合い、酵母や芋の鮮度にこだわり幾度も改良を重ねながら、ようやく納得のいく焼酎へとたどり着くことができました。
そしたら発売したその年に鹿児島県本格焼酎鑑評会で、いきなり総裁賞代表を受賞したんです!本当にすべてが報われた瞬間でしたね」
――いきなり総裁賞代表!それはすごいことですね。
原さん「余談になりますが、授賞式の夜に授賞式のあったホテルのバーで数人の仲間と社長で祝杯をあげたんです。社長が『今日はお祝いだから何でも頼んでいい!』とのことだったので、そこで杜氏がまさかの『ドンペリ!』と。みんな若かったので勢いもあったのですが、私はそんな高いもの大丈夫?と思っていました。でも社長はOKしたんです。そこには当社の掲げる“本格焼酎を真の國酒へ、更には世界に冠たる酒へ”という目標があったので、まさにドンペリのように有名になればという思いもありドンペリで祝杯をあげました。味は覚えてないのですが、総裁賞を受賞したことが何よりも誇らしかったのを覚えています。そのときのドンペリのボトルは今でも当社のブレンド室に飾ってあるんですよ」
――いろんな人の想いが結実したのですね。素敵なエピソードです。では「海童」というネーミングの由来は?
原さん「公募で選んだのですが、由来は東シナ海に面したいちき串木野市の歴史に関係しています。それは今から150年前の1865年、『羽島浦』(いちき串木野市)という小さな漁村から、国禁を冒し命がけでイギリス留学に旅立った、後に『薩摩スチューデント(※1)』と呼ばれた若き志士たちがいたんです。串木野の『海』と志をもって旅立った『若者』が主役となり、この地を創ってきたことから『海童』と命名したという経緯です」
(※1)1863年の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、西欧の技術や知識を吸収するために薩摩の志士をイギリスへ派遣しました。メンバーの中には、後に初代文部大臣になった森有礼やカリフォルニアでワイン醸造に成功し「ブドウ王」と呼ばれた長澤鼎、現在のサッポロビールの前身である開拓使札幌麦酒醸造所を設立した村橋久成などがいました。
なるほど。「海童」誕生にはそんな物語があったのですね。
焼酎ブームの真っ只中、「海童 祝の赤」誕生
さて、レギュラー「海童」が生まれた翌年の2002年には、「海童 祝の赤」が発売されました。今では、この赤いボトルを「海童」と認識している人も多く、ヒット商品となっています。
実はこちらにも、興味深いエピソードがあるのだとか……。
――「海童」と言えば「海童 祝の赤」を連想する人も多いと思います。こちらはどのようにして生まれたのですか?
原さん「当時のことを思い起こしながらお話していければと思います。
『海童 祝の赤』といえば赤いボトルが印象的ですが、最初に赤いボトルを使ったのは、新酒祭りの時だったと思います。しかも、中身はレギュラーのままでしたから、まだ『祝の赤』というネーミングではなかったと記憶しています。ボトルを赤にしたのは『海童』が総裁賞代表を受賞したお祝いという意味合いもあったという話も聞いてますが、当時は焼酎のボトルとしては馴染みのない色だったので、社内では否定的な声もあったのを覚えています。だから、まずは祭りで、ボトルだけ変えて出してみようかとなったのだと思います」
――なるほど、赤いボトルが先だったのですね!では、「祝の赤」という商品やネーミングも追々決まって行ったのでしょうか?
原さん「そうですね。当時は、焼酎不足になるほど、焼酎ブームの真っ只中でもあったので、レギュラーに次いでこの焼酎に注力していこうと決まり、どんどん開発が進んでいきました。今では、紅芋を使ったりと、『祝の赤』としての特徴が形作られていきました。
ボトルの色は、東シナ海の夕日をイメージしています。近代化の夜明けを夢見ていちき串木野から旅立った、薩摩スチューデントへの門出の祝いもネーミングには込められているかもしれません。新しい工場では、そんな革新的なボトルとネーミングを纏った『海童 祝の赤』を全面的に売り出していくというプロジェクトが始まったわけです」
――発売当初は、営業活動にもかなり注力されていたそうですね。
原さん「そうなんです。全社的に『祝の赤』を盛り上げていくこととなり、営業部も製造部も関係なく、繁華街の飲食店などに出向いて営業を行いました。当時は『レッドタイフーン作戦』と呼んでいたんです!」
――なんだかすごい作戦名ですね(笑)。実際に営業活動されてどうでしたか?
原さん「私は、後には先にも初めての営業活動だったので、とても大変でした。
焼酎ブームとは言え、まだまだ『祝の赤』も知名度がない時代だったので、10軒中1軒契約できれば良い方で……。でも、商品を売ることの難しさやお客様のありがたさを実感できたので、今思えばとても貴重な体験でした。ちなみに、その日の営業活動の後、みんなで居酒屋に集まって反省会兼飲み会が恒例になっていたので、それを楽しみに頑張っていた思い出があります(笑)」
――当時の勢いを感じます。そんな地道な努力が今の「海童」に繋がっているのですね。そんな原さんにとって「海童 祝の赤」はどんな存在ですか?
原さん「やはり、発売当初から関わってきましたので、かなり思い入れはあります。『海童』のフラッグシップモデルとして、これからも大事に、そしてもっと多くの人の愛される商品となるように、頑張っていきたいと思います」
「海童 祝の赤」にもそんなストーリーがあったとは……。
濵田酒造の新たな時代を切り開いた2本の焼酎。
まさに新時代の礎を作った薩摩スチューデントのようですね!
海童の歴史って本当に面白いです。
蔵人のみなさんも海童のつまみになる話としてぜひ語ってください。
ちなみに、その後、「海童 栗黄金」や「海童 蒼(ブルー)」など、特徴をイメージさせるカラーボトルを展開するようになったのも、「海童 祝の赤」がきっかけとなっているそうですよ。
それはまたの機会のお楽しみで。それではみなさんも素敵な海童ライフを!